喜多流の歴史

流紋(喜多霞)

喜多流の流祖、喜多(旧姓は北)七太夫長能(1586~1653)は、堺の目医者の子で7歳の時、豊臣秀吉の前で舞った「羽衣」で名を上げ「七つ太夫」と呼ばれた芸の天才でした。この名が後に、そのまま七太夫(しちだゆう)となり、喜多流の家元の呼称となりました。

その後豊臣秀吉の近習となり、六平太(ロッペイタ)と呼ばれていました。このロッペイタはポルトガル語に由来するとも謂われ、秀吉の近くに侍っていたことから名付けられたと謂われています。後にはこの六平太を、家元継承前の名として用いました。

秀吉の応援もあって、金春禅曲の娘を娶って、その流れを汲む事になりますが、その時代には四座の他にも、渋谷流や下間(しもつま)流と云った様々な能役者の流れがあり、七太夫は卓越した芸術的感覚でそれらをも取り入れ、一流を創り出しました。その秀でた力量を認められ、一時は金剛太夫として、また宝生流の後見役を勤めるなどの活躍もありました。

大阪夏の陣には豊臣方の一員として戦い、落城後は身を隠していましたが、徳川家康が「七太夫はどうしている、あの能がもう一度観たい。」と云ったのがきっかけとなり、黒田藩主達が奔走して七太夫を探し出し、江戸へ出仕させました。その間に、徳川将軍は二代目の秀忠に替わっていました。秀忠は七太夫に徳川家に仕えるように勧めましたが、七太夫は武士は二君に仕えずと云って固辞しました。秀忠は、それでは今後は能役者として仕えるようにと勧め、北姓を喜多と改め、家紋もその時の引き出物の嶋台を模って喜多霞の家紋(喜多流の紋所)としました。太夫としての待遇を受け、従来の四座の別に一流の創設を認められ、七太夫流或いは喜多流と呼ばれるようになりました。