喜多流能楽師のご紹介

十三代目の時に明治維新となって、一時絶えかけた喜多家でしたが、十二代目の外孫宇都野千代造が10歳で十四代目を継承、「六平太」を名乗りました。 明治維新による変革で生活も窮乏の時代でしたが、それを乗り越え明治政府の基盤の固まりとともに、能も能楽と名付けられ(それまでは猿楽の能と云われていました)徐々に復活し、各流ともに次第に隆盛を極めるようになりました。十四世六平太は、一代の内に飯田町(関東大震災で消失)、四谷(戦災で消失)、現在の喜多能楽堂と3回舞台を建てました。 その芸は元祖以来の名人と云われ、芸術院会員・文化勲章・人間国宝(正式には無形文化財保持者)の栄誉を授かっています。 現在能楽のシテ方は5流(明治以後四座は流に名称を改めています)で伝承されていますが、喜多流は他の流儀よりも少し歴史が短く、幾分小規模ですが、人間国宝認定者を4人も輩出している唯一の流儀です。 能楽は武家の式楽として長い歴史を誇っていますが、その中で喜多流は特に武士気質が強く、素朴ながら豪放な芸風で、遠目にも力強さが感じられる芸風が特徴です。

十四世喜多六平太の年譜

明治7年常陸国竜ヶ崎に550石の知行を拝領していた旧幕臣=宇都野鶴五郎と十二世喜多六平太(能静)の三女まつの次男として生まれる。 幼名を千代造といい、明治13年(7歳)に喜多家の養子となり、明治14年(8歳)喜多家を相続。 十二世喜多六平太から免許皆伝を受けていた旧津藩主=藤堂高潔伯爵に能を習い、明治15年4月(9 歳)、華族能に藤堂高潔がシテを演ずる『鞍馬天狗』の子方として初舞台を踏み、明治17年3月(11歳)には家元継承披露能を催し、『鷺』の初シテを舞う。 飯田町に喜多舞台が落成した翌年の明治27年2月(21歳)にして六平太を襲名し、その披露能で『三輪』“神遊”を勤める。(のち、十二世喜多六平太に倣い雅号を“能心”と称する) 明治28年(22歳) 医学者司馬凌海の子で囲碁の名家=林家の養女になっていた林文子(没後に七段位を贈られた女流棋士の最高段者)と結婚するが実子なく、明治38年(32歳)文子が碁の出張教授の場として利用していた大阪曾根崎新地で貸席待合い業を営む後藤真平の三男=実を養子として迎える。 大正12年(50歳) 関東大震災により飯田町の自宅や喜多舞台を焼失し、それまでの装束や伝書類の一切を失うが、昭和2年には浅野侯爵別邸の能舞台の寄贈を受けて、四谷に新たに喜多舞台を建設する。 昭和6年(58歳) 宗家継承50年祝賀能を催して『安宅』・『石橋』を舞い、昭和10年(62 歳)の建流350年記念能では『道成寺』を演じる。 昭和18年(70歳) 社団法人能楽協会の設立委員長となり、これを創立する。 昭和20年(72歳) 戦災で再び喜多舞台を失うが、染井能楽堂(横浜能楽堂の前身)や水道橋能楽堂で活動を続け、昭和21年4月(73歳)には芸術院会員に選ばれ、同年能楽協会理事長に就任。 昭和28年(80歳)には文化勲章を受章すると同時に文化功労者にも選ばれる。 昭和30年(82歳) 東京目黒の地での喜多能楽堂竣工記念能で『翁』・『羽衣』を舞い、同年には重要無形文化財(人間国宝)認定第一号保持者となる。 昭和32年(84歳) 能楽師の重要無形文化財認定保持者を会員とする日本能楽会を結成し、その会長に就任。昭和40年には東京都名誉都民に選ばれる。 能では昭和33年(85歳)での『鉄輪』が、仕舞では昭和38年(90歳)の『天鼓』が最後の舞台となり、昭和46年1月11日、数え98歳にて没し従三位に叙せられる。 法名は『喜徳院能譽多聞平太善居士』

【略歴】文中()内の年齢は数え年で記載しています。

〈参考文献〉 ◆「喜多流の成立と展開」(平凡社) 表 章著 ◆喜多六平太追悼特別号「喜多」 昭和63年刊 ◆「六平太藝談」(竹頭社) 喜多六平太著